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あなたのとりこ 433 [あなたのとりこ 15 創作]

「要するに土師尾さんの顔を、一刻でも早く見納めたいと云う事でもあるのね?」
 那間裕子女史が確認するのでありました。
「勿論それもあります。でも第一番には、もう本当に、今の会社で働く意欲がすっかり失せたんですよ。会社に未だ残っている皆さんの前でこういう云い方をするのは、ちょっと申し訳無いような感じは何となくするっスけど」
 出雲さんは額がテーブルの上のコーヒーカップに付くくらいの一礼をして見せるのでありましたが、これは心からの恐縮の表明なのでありましょう。
「別にあたし達に対して殊更申し訳無く思う必要は無いけど。・・・」
 那間裕子女史は出雲さんの後頭部に向かって声を掛けるのでありました。恐懼する出雲さんの姿が気の毒に見えてきたようであります。
「折角組合が出来たのに、春闘を終えたところで途中で抜けるのも、何だか裏切りを働いているようで、皆さんに対して済まない気持ちになります」
「まあ、それは仕方が無いけど、でも出雲君は正月の初出社以来色々気苦労があったし、それを親身になって聞いてくれる上司にも仲間にも恵まれなかったし、そういう経緯から相当思いつめたんだろうし、慰留するのは、何だか無理のようね」
 那間裕子女史は理解を示すような事を云いながら、この科白の中の、親身に聞いてくれる上司にも仲間にも、と云う辺りで袁満さんの方に視線を這わすのでありました。
「いや袁満さんにも、それにここには居ないけど日比課長にも、新しい地方特注営業の仕事をするに当たって、何くれとなく心配していただきましたっス」
 那間裕子女史が袁満さんに批判の矛先を向けようとしていると思って、それは不本意のようで出雲さんは袁満さんを庇う心算かそんな事をものすのでありました。
 その辺りで、頑治さんは地下フロアへの階段を下りて来る甲斐計子女史の姿を認めるのでありました。甲斐計子女史は近眼のせいかそれとも歩行に於ける足運びが不器用なためか、俯いて直下の足先に目線を落として、片手で手すりに掴まりながら恐る々々、慎にぎごちなさそうな足取りで階段を下りているのでありました。

 甲斐計子女史は階段を下り切った後立ち止まって辺りをキョロキョロと眺めるのは、頑治さん達の居る席を探しているのでありましょうが、なかなか見付けられないようでありました。頑治さんが座った儘テーブルの脇にやや身を乗り出して手を振ると、それでようやく見つけたようで趨歩しながらこちらの方に遣って来るのでありました。
「新宿なんか滅多に来ないから、駅からこの喫茶店が見つかるかどうか心配だったけど、案外簡単に来れたわ。でも店内か広いから、入ってからまごまごしたわよ」
 甲斐計子女史はそう云いながら、空いていた出雲さんの隣に座るのでありました。それから、すぐに遣って来たウェイトレスにブレンドコーヒーを注文するのでありました。
「まあ兎に角、俺の我儘で皆さんに大変な迷惑をおかけするのが非常に心苦しいです。そこはいくら謝っても謝り足りないと思っているっス」
 出雲さんはやおら立ち上がって、居住まいを正して深くお辞儀するのでありました。
(続)
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