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あなたのとりこ 292 [あなたのとりこ 10 創作]

「別に置いておくのはちっとも構わないけど、要するにつまり、ネコと一緒にこの本も本棚の上から内命で俺の見張りを仰せつかっていると云う訳かな」
「そうね。ま、ネコの手下」
 伊東静雄も野呂邦暢もネコのぬいぐるみの風下に置かれるのでありました。それより何より伊東静雄と野呂邦暢の目に見張られているとなると、頑治さんとしたら何となく気が滅入るのでありました。せめて最近の若い女流詩人とか小説家とかなら未だしも。
 夕美さんは本を取って立ち上がると壁一面の本棚を見回すのでありました。空きスペースが見当たらないので夕美さんは本を抱えた儘困るのでありました。
「ネコの横にでも置いておいてくれれば、後で俺が適当に仕舞っとくよ」
 分散した監視の目で部屋中を隈なく見渡されるのも叶わないから、頑治さんはネコの居る傍に纏めてその本を入れて置く心算でありました。見張り連中の視野をなるべく制限して、死角を少しは作っておく方が何かと好都合かと云う魂胆であります。とは云っても、別にネコや本に見られ困るような振る舞いはする心算も無いのでありましたけれど。
 引っ越しの整理整頓の最中で自分の部屋に帰っても落ち着かないと云う理由で、夕美さんはその夜頑治さんのアパートに泊まっていくのでありました。翌朝は、転居の作業が未だあれこれ残っているからと夕美さんは早々に帰って行くのでありました。
 夕美さんが居なくなった代わりに、ネコのぬいぐるみと数冊の本が部屋に残されるのでありました。それがごく近い将来の夕美さんの不在を確証しているようでありました。
 急に頑治さんは寂しさに襲われて、床に寝ころんで頭の後ろに組んだ手を枕に、棚の上のネコと睨めっこをしているのでありました。ネコは監視のための鋭い視線ではなく、至極穏やかに無表情に頑治さんを見下ろしているのでありました。

 回答指定日までに何度か神保町の貸会議室で会合が持たれるのでありました。その際に賃上げの最低線と、明快な賃金式の確立が妥結の条件として確認されるのでありました。要求書には就労時間短縮も盛り込まれていたのでありましたが、これは全総連全体のここ最近の要求の傾向を無視しないために盛り込んだ迄で、一同はそれも若しかしてかち取れるようだったら、まあまあ、御の字かなと云った程度の期待感でありましたか。
「妥結するには、一筋縄とはいかないでしょうね」
 那間裕子女史が懸念を表するのでありました。
「しかしあの社長は春闘を長引かせないんじゃないかな」
 横瀬氏が要求提出日での社長の態度とか対応を思い浮かべるような顔付きで、少し楽観的な観測を述べるのでありました。
「つまり持久戦を持ちこたえるだけの胆も、したたかさも無いと云う事ですかね」
 均目さんが薄ら笑いを浮かべて訊くのでありました。
「粘り強い感じじゃなさそうだし、懸念があるとそれが気持ちの一番表面から離れず、そんな憂鬱から早く解放されたいとひたすら考えるタイプじゃないかな」
「要するに小心者だと云う事ですね」
(続)
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