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あなたのとりこ 106 [あなたのとりこ 4 創作]

「見事な書かい?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「判らないわ」
 夕美さんは未だ熱心に眺め遣りながら応えるのでありました。「何が書いてあるのか覚えておかなくちゃ、と思って眺めているだけ」
「そりゃそうだな。ちゃんと足を運んだと云う証拠だもの」
「風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還」
 夕美さんは書いてあるところを音読みで諳んじるのでありました。「・・・だって。長くて覚えきれないわ。多分漢文の一節でしょうけど」
「風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去って復た還らず」
 頑治さんが読んで見せるのでありました。夕美さんは横に立つ頑治さんの方に顔を向けて驚きの表情をするのでありました。
「あれ、頑ちゃんこの文章知っているの?」
「荊軻と云うヤツの歌だな」
「誰、荊軻って?」
「秦の始皇帝を暗殺しようとして失敗した刺客だよ」
「ふうん、そうなんだ」
 夕美さんは感心して見せるのでありました。
「中国の戦国時代末の男で、燕と云う国から正に始皇帝、その時は未だ秦王政だけど、暗殺に出発する時、易水と云う川の畔で歌ったんだ。司馬遷の『史記』の中にあるよ」
「時々感心するんだけど、頑ちゃんはよく何でも知っているわね」
「ま、あんまり役に立ちそうにない余計な事はあれこれね」
「ちょっと後で読み方を紙に書いといてよ」
「良いよ。帰ったら書くよ」
「何かさあ、今の仕事させとくのは惜しい気がする」
「今の仕事って、会社の業務の仕事?」
 夕美さんは勿体らしく頷くのでありました。
「他にもっとその知識を生かした仕事がありそうなものだけど」
「いやいや、知っているとは云ってもそれはつまり、半可通と云うものでがさつでちゃらんぽらんで、深みには欠けるもの。何か一つを突き詰めると云う風じゃ全然ないから」
「そうでもないと思うけど」
「いやいや、落語に出てくる横丁のご隠居さんレベル以上ではないな。俺なんかより大学院で考古学をやっている夕美の方が遥かに、専門的な知識と云う点で上だな」
「考古学、かあ」
 夕美さんはそこで少し考える風の顔をするのでありました。と云っても、考古学をやっている自分と頑治さんのどちらが知識と云う点で上かどうかを考える、というような事ではなく、もっと別な想念が頭の中に去来したからのようでありました。
(続)
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