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あなたのとりこ 65 [あなたのとりこ 3 創作]

「まあ、良いじゃないか。あの人は何を考えているのか窺い知れない人なんだから」
 頑治さんがそう云うと夕美さんは「ふうん」と、何となく納得し難いような表情を浮かべるのでありました。しかし特段拘らない風に眉宇を広げて右手に持ったスーパーの紙袋を持ち直して、左手で頑治さんの右手の掌を握るのでありました。こういうところをうっかり刃葉さんに見付けられるのも詰まらないから、頑治さんは夕美さんの指に自分の指を絡めながら、その手を引くようにやや足早にその場を離れるのでありました。

 神保町の古書店で籠に入った廉価な文庫本を三冊買った勘定に思いの外手間取り、頑治さんは足早に夕美さんと先程待ち合わせを約した公園に戻るのでありました。夕美さんはもう既にあのベンチに座っていて、頑治さんが慌てながら駆け込んで来る様子が可笑しかったのか、口に手を当ててベンチから立ち上がって手を振るのでありました。
「計算がうっかり間違っていて、レジに行ったら十五円不足していたんだよ」
 頑治さんが傍まで来るなりそう云うものだから夕美さんは何の事だか判らずに、戸惑うように頬から笑いを消して首を傾げて見せるのでありました。
「十五円がどうかしたの?」
「で、あっちこっちポケットの中を探ったら十円はあったんだ」
「あと五円足りない訳ね」
 そもそもの事情がよく判らないながら夕美さんは話しの流れに乗るのでありました。
「そう。もうポケットからは一円も出てこない」
「それは困ったわね」
 夕美さんは眉宇を狭めるのでありました。そこで頑治さんは右手に持った輪ゴムの掛かった文庫本三冊の束を夕美さんの目の前に差し上げて見せるのでありました。それでようやく、どこかの本屋で文庫本を買っていざ勘定と云う段で所持金が十五円足らなかったのだろうと、夕美さんは頑治さんの今の話の大概を察したようでありました。
「で、ね、馴染みと云う訳ではないんだけど、向こうも名前は知らないけど俺の事を時々店に来る客だと認識が無い訳でもないみたいで、仕方が無いから今度来る時に五円を払ってくれればいいよとあっさり許してくれて、この三冊を売ってくれたんだよ」
 夕美さんは頑治さんが差し上げた文庫本を覗き込むのでありました。
「今のは古本屋さんでの出来事ね」
 表紙の少し古びている風情からそう判断したのでありましょう。
「そう。きっぱり五円負けてくれる訳じゃなくて、貸し、と云う事にしてくれる辺りが俺のその古本屋での在りようと云うところかな」
「ああ成程ね」
 夕美さんは二度程頷きながら頑治さんに笑みかけるのでありました。
「と云う事で、勘定に手間取って少し遅れた次第だ。ご免」
 頑治さんは頭を下げて見せるのでありました。
「なんて長い云い訳だ事」
(続)
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