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あなたのとりこ 64 [あなたのとりこ 3 創作]

「そう。ここの三階が事務所で一階の駐車場奥が倉庫」
 頑治さんは応えながら駐車場奥の倉庫の扉が少し開いていて、そこから灯りが漏れているのを見るのでありました。頑治さんが退社する時には製作部の山尾主任と均目さんが残っているだけで、倉庫の刃葉さんも他の社員も既に退社しているのでありました。山尾さんか均目さんが未だ残業していて倉庫で何か作業をしているのでありましょうか。
「倉庫に未だ誰か居るみたいね」
 夕美さんも長方形の灯りの方に視線を向けるのでありました。二人して何となく遠目に窺っていると、その内微かに人の声が灯火に混じって漏れ出て来るのでありました。
 それは言葉と云うよりも何やら呼気に乗せて単発音を発していると云った風でありましたか。剣道や柔道の試合の時に耳にするような気合の声のようなものであります。
 倉庫の仲でこんな声を発する人と云ったら、これはもう刃葉さん以外ではないでありましょう。勘繰るに、空手の突き蹴りの練習をしているか、或いは木刀で素振りでもしているのでありましょう。バレエではこんな気合の発声はしないでありましょうから。
 刃葉さんは五時になったら早々に退社した筈であります。あれこれやっている習い事に
早々に出向くためと思ったのでありますが、今日は何も無い日なのでありましょうか。しかしそれにしても退社後に会社の倉庫で仕事とは無関係な個人的な習い事の練習をしているとすれば、これは例によって慎に不謹慎と云う誹りは免れ得ないでありましょう。
 残業していた山尾主任と均目さんはもう帰ったのでありましょうか。未だ残っているとしてもこの事を知らないのでありましょうか。それとも知っていても刃葉さんに注意するのが億劫で、その儘目を瞑って放置しているのでありましょうか。
「ちょっと待っていてね」
 頑治さんは夕美さんにそう云い置いてビルの横手に回ってみるのでありました、ビルは東南の角地に立っていたから、東側の狭い道から見上げれば、三階の制作部スペースの窓に明かりが点いているかどうか確認出来るのであります。
 灯火は消えているのでありました。と云う事は山尾主任と均目さんはもう帰っていると云う事であります。依って二人が居なくなった頃を見計らって羽場さんは会社に戻って来て、誰憚る事無くこんな勝手な真似をしていると云う事でありましょう。
 折角倉庫の整理整頓を始めた自分の仕事がひょっとしたらこれで棄損される恐れもあると思うと、頑治さんは少し腹立たしく思うのでありましたが、しかし乗り込んで行って、昨日入ったばかりの後輩が先輩の所業を咎め立てする、と云うのも何やら了見違いの出過ぎた真似のようでもあります。取り敢えずここは堪えるのが上策かも知れません。それにここで刃葉さんと一悶着起こして、折角のこれからの、夕美さんと二人だけの楽しかるべき時間への突入を遅らせて仕舞うのも慎に惜しいと云うものではありませんか。
「さっき話しに出た羽場さんが、珍しく残業しているんだろう」
 頑治さんは夕美さんにそう云ってこの場を離れようとするのでありました。
「時々気合をかけるような声を出す残業仕事?」
 夕美さんが怪訝そうに首を傾げるのでありました。
(続)
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