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あなたのとりこ 28 [あなたのとりこ 1 創作]

 しかしその狼狽の色もすぐに顔から消えて刃葉さんは頑治さんに笑顔を向けるのでありました。どういう心算の笑顔なのか頑治さんは判然としないのでありました。嘗めていると思えば思えなくもないし、一種の羞笑と取れば取れなくはないのであります。
「でもまあ、そんな固い事云うなよ」
 ちっとも応えないと云うのか、あっけらかんとしたものであります。頑治さんはげんなりして仕舞うのでありました。まあ、幾らこちらの言に分が有るとは云え、出社初日から先輩社員と云い争いするのもいただけないと云えばいただけない話しでありますか。
 それにしても土師尾営業部長とか山尾さん辺りは、倉庫で刃葉さんがこんな事をしているのを知らないのでありましょうか。それとも知っていながら注意しないのでありましょうか。注意しても刃葉さんがちっとも云う事を聞かないのでありましょうか。まあ確かにこの刃葉さんと云う人は話して通じるタイプの人ではないような感じではありますが。
 出入口の方から集荷に来た運送屋が声を掛けるのでありました。羽葉さんはすぐにそちらに向かうのでありました。一応手伝うために頑治さんも刃葉さんの後を追うのでありました。そうこうしている内に午前中の仕事時間が終わるのでありました。

 頑治さんは神保町交差点近くの立ち食い蕎麦で腹を満たして、その後その立ち食い蕎麦屋近くのビルの地下にあるネルドリップのコーヒーを出す薄暗い喫茶店で時間を潰しながら、午後一時までの昼休みを過ごすのでありました。刃葉さんと云う人は慎に付き合いにくい、と云うのか出来れば付き合いたくないタイプの人であると、小振りのカップに満たされたコーヒーの湯気に鼻先を包まれながら考えるのでありました。
 別に悪気に満ちた人ではないのでありましょう。しかし仕事に対する遣る気の無さとそれに起因する在庫物への無神経や無配慮、マイペースを崩そうと端から全く思ってもいない唯我独尊、そんな自分の在り様を隠そうともしない高慢、自分の仕事環境への無関心、よくもまあそれで今まであの会社で勤まってきたものであります。
 刃葉さんはあと二か月で会社を辞めるそうでありますが、この先長く付き合わなくて済むのが辛うじての幸いと云うものでありますか。しかし向う二か月間は仕事を教えて貰ったり、それに恙無い仕事の引継ぎやらで一緒にいる時間は他の社員の誰よりも長いでありましょう。頑治さんの溜息が鼻先のコーヒーの湯気を揺らすのでありました。
 事務所に戻ると丁度、刃葉さんがその日急に入った梱包仕事のため午後に回した池袋の宇留斉製本所への定期便仕事に向かうために下の駐車場へ行くところでありました。
「宇留斉製本所に行くけど、付いて来るのかい?」
 刃葉さんが頑治さんに声を掛けるのでありました。そう云われて頑治さんが戸惑っているとすぐに奥の制作部から山尾さんが顔を出すのでありました。
「いや、来週の月曜日に紹介も兼ねて俺が連れて行くか、或いは均目君に連れて行って貰う事にしているから、唐目君は今日は一緒に行かないよ」
 山尾さんの言に刃葉さんはふうんと唸って口をやや窄めて見せるのでありました。手伝いの足しとして付いて来て貰いたいような面持ちでありましたか。
(続)
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