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あなたのとりこ 1 [あなたのとりこ 1 創作]

   松葉

 緩やかな下り坂に差しかかると、唐目頑治さんの靴の中でこのところ時折起こる異変が始まるのでありました。それは決まって、それ迄無表情であった頑治さんの眉宇に苦悶の色を浮かしめるのでありました。頑治さんは歩を止めないながらも、舌打ちの音を隠す事もせず、互い違いに前に出る自分の足下に視線を落とすのでありました。
 靴の中で靴下が、歩の重なりに同調しながら段々と脱げていくのであります。今朝心急いていたので偶々、口の緩くなっている靴下を装着して仕舞ったようでありました。
 頑治さんの所有する十足余りの靴下の中に二足だけ、その要注意の靴下があるのでありました。穴も開いていないものだから、洗濯して捨て惜しみに引き出しの中に仕舞い続けてきたのでありますが、選りに選って気が急いでいるこの今朝に限ってあの忌々しい靴下を選んで仕舞ったとは、何たる不仕合せでありましょうか。
 足裏に這う我慢ならぬ不快に頑治さんは立ち止まって、土踏まず辺りに秘かに蟠る靴下を引き上げようかと余程思うのでありましたが、しかし往来の真ん中でそのような無様を仕出かすのも、これもまた世間への体裁に照らして、断じて我慢ならぬ仕業と云うものであります。頑治さんはここが辛抱のしどころと観念するのでありました。
 駅までこの儘平気な顔で歩き切って電車の座席に座ったら徐に何気なく、ごく自然な感じで靴下を引き上げれば、その方が往来での不格好よりは未だ許容出来る不格好と云うものでありますか。ならぬ我慢を今少し我慢するのが我慢の神髄と云うものであります。
 しかしこの頑治さんの目論見は無惨に打ち砕かれるのでありました。乗りこんだ電車が満員で、座席に座るどころか身動きも儘ならないと云う在り様なのでありました。これは何たる不運、嘆くも疎かなる間の悪さと云うものであります。家を出てすぐにこんな不愉快を蒙るとは、何とまあ幸先の悪い事でありましょうか。

 結局、飯田橋の職安に着くまでに頑治さんの両足の靴下はすっかり足部から脱落して、靴先に詰め物のように固まって頑治さんの指先を不快に圧迫するのでありました。
「どうも、唐目ですが、何か良い就職先でも見つかったのでしょうか?」
 頑治さんはここ暫くの職安通いですっかり馴染みになった、田隙野道夫、と云う名札を首から下げた職員の前の椅子に座りながら訊くのでありました。
「ああこれはこれは唐目さん、早速にお越しいただいて恐縮です。お気に召すかどうかは判りませんが、唐目さんのお出しになった条件にほぼ合致するようなしないような求人がまいりましてね、それでご足労願ったと云う次第ですわ」
 田隙野氏は慎にニコやかな顔を向けるのでありました。こういう処の職員にありがちな高飛車で、人を見るに自力で職も探せない無能者を見下すような目線なんぞが、この田隙野氏には全くないのでありました。しかも妙に殺伐とした、軽口でも云おうものなら顰蹙を買いそうな安定所の雰囲気からも何となく超然としている風なのでありました。かと云って決して仕事が投げ遣りでもなく、親身でないわけでもないのであります。
(続)
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