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お前の番だ! 539 [お前の番だ! 18 創作]

 昨日までは思いも依らなかったあゆみの万太郎に対する態度のこの劇的な変化は、一体どうした按配なのでありましょうや。あゆみが万太郎にこうして体裁も何も気にもせずに、まるで大事なものを手放すまいとする子供のように縋りついている様と云うのは、勿論心は歓喜の側に大方は在るのではありますが、万太郎としてはまるで狐に摘まれたようなもので、全く以って居心地の悪い状態と云えなくもないものではありましたか。
「あたしがこうしているの、万ちゃんは嫌?」
 万太郎の居心地悪さが飽和状態になっているのがその腕を通して判るものだから、あゆみは万太郎の顔を窺いながら訊くのでありました。
「いや、決して嫌と云うのではなくて、実は寧ろ大いに嬉しいのですが、・・・」
 万太郎はまたもう一方の腕を上げて頭を掻くのでありました。「何と云うのか、その、あゆみさんにこんな風にして貰っていて良いのかしらと云う、畏れと云うのか、勿体なさと云うのか、何だかよく判らないのですが、そんな気持ちも、勿論夢見心地が大部分なのですが、それとない交ぜになって、竟、体が強張って仕舞うのです」
 こんな返答で、自分の緊張がどういう具合に起っているのかがあゆみにちゃんと伝わるだろうかと、万太郎は云い終えてから熱っぽい頭の中で考えるのでありました。
「あたしだって、洞甲斐先生の道場を出る迄は、自分が万ちゃんにこんな事をするなんて思ってもみなかったわ。でも、万ちゃんの横を歩いていたら、今こそ万ちゃんの腕に縋りつかなきゃって、急に思って、どうしても抑え切れなくなって、自分でも驚くくらい大胆に、でも結構自然に、こういう風にしちゃったのよ。それでも、して良かったって思うわ。あたしは今、自分がすごく、大袈裟に云えば解放されたような気分になの」
 あゆみの見つめる目が先程よりももっと潤んでいるように万太郎は感じるのでありました。その目に依って万太郎の感奮は限度を益々越えに越えるのでありましたが、この心の状態を至福と呼ぶのであろうと思って、頭に血が尚更昇るだけ昇るのでありました。
「竟さっきまでは万ちゃんの事を考えると、切なくはなるけど、でもそれはあくまでも気持ちの中から外に出なかったのよ。でも、もう一杯々々だったのね。で、堰が切れたの。あたしの手が勝手に、大した勇気も要らずに、万ちゃんの腕に縋りついていったの」
 万太郎の腕を掻き抱く手に、あゆみは更に力を籠めるのでありましたが、至福がもう一丁、先の至福を超えるような心持ちにさせられて、万太郎の心は蕩けるのでありました。こんな折にあのノッポに攻撃されたら万太郎は屹度不覚を取ったでありましょう。
 万太郎の、茹で上げられた蛸のようになった脳ミソは、湯気を発して言葉なるものをすっかり喪失しているのでありました。だから言葉の代わりに当然、行為で以ってあゆみの気持ちに応答を示さなければならないのであります。
 万太郎はあゆみの掻き抱く手からそっと自分の腕を外して、その腕をあゆみの肩に回してあゆみを引き寄せるのでありました。引き寄せられたあゆみは万太郎が何をするのか確認するため一拍の間を置いて、安心してまた万太郎にしな垂れかかるのでありました。
 あゆみの手が今度は万太郎の腰に回されるのでありました。その指は矢張り万太郎を手放すまいと、万太郎の衣服をきっぱりとした力で掴んでいるのでありました。
(続)
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