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お前の番だ! 266 [お前の番だ! 9 創作]

 是路総士にお辞儀するよりも先にあゆみにそう声をかける威治教士の不心得を、万太郎は秘かに笑うのでありました。ま、無邪気、と云えば聞こえは良いでありましょうが。
 あゆみが威治教士に献じる茶を卓に静かに置いたのを潮に、万太郎は師範控えの間前の廊下から退くのでありました。是路総士とあゆみが接客に現れたのなら、万太郎がそこに何時までも留まっている必要はないでありましょうから。
「コーヒーを入れ直しましょうか?」
 万太郎が食堂に引き上げて飲み残しのコーヒーカップを取り上げるのを見て、来間が背後から訊ねるのでありました。
「いや、これで良い。それより、一般門下生稽古が始まる前に道場を点検しておけよ」
「押忍。これから行ってきます」
 来間は万太郎に一礼して食堂を去るのでありました。一人残った万太郎は椅子に腰かけて冷めたコーヒーを口に含んで、威治教士への対応があるから、この後の一般門下生稽古には是路総士もあゆみも出ないだろうと考えるのでありました。
 それにしても威治教士が一人で総本部道場にやって来るのは、ここ最近では稀な事でありましょうか。あゆみに逢いたさに、興堂範士に云われていそいそとやって来たのでありましょうが、あくまで名目は是路総士の退院のお祝いを述べに来たという事でありますから、あゆみと二人でじっくり話しをするチャンス等はないと云うものであります。
 しかし是路総士が次の稽古で見所に座るとなると、師範控えの間で威治教士はあゆみと二人きりになれるのであります。是路総士はその日午前中の専門稽古では、久しぶりに見所に座ったのでありましたから、その可能性は高いと云うものでありましょうか。
 是路総士は見所に座った後少し疲れたような様子で、昼稽古と夕方稽古は道場に現れないのでありました。しかし特段の腰の不具合は感じていないようでありました。
 となると夜の一般門下生稽古は見所で稽古を看る心算かも知れません。そうなると威治教士はあゆみと二人になれるわけで、これは面白くないと万太郎は思うのでありました。
 稽古開始の十五分前になると、万太郎は是路総士とあゆみの意を確かめるために師範控えの間に伺いに出向くのでありました。障子戸を開けるとあゆみの姿はなく、卓の前に座る是路総士から少し離れたところで威治教士が稽古着を着つけているのでありました。
「折野、折角だからと云うので、威治君がこの後の稽古に参加してくれるそうだ」
 是路総士が廊下に正坐する万太郎に云うのでありました。
「押忍。しかしこの後は専門稽古ではなくて一般門下生稽古ですが?」
 万太郎は是路総士にそれで良いのかと云う目を向けるのでありました。
「まあ、専門稽古ばかりではなく、偶には一般の稽古に参加してくれるのも、ウチの一般門下生達にとっても良い刺激になるだろう」
「押忍。それではよろしくお願いいたします」
 万太郎は威治教士の方に体の向きを変えて、興醒め顔を隠して丁寧な物腰で座礼するのでありました。威治教士は黙って一つ、無愛想な表情で頷いて見せるのでありました。
「総士先生は如何なさいますか?」
(続)
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