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お前の番だ! 83 [お前の番だ! 3 創作]

「お前の剣じゃ人は斬れんな」
 これはまた出し抜けに異な事を宣うと万太郎は威治教士の言葉に、まあ、余裕を以って少々驚くのでありました。
「押忍」
「人を上手に引っ叩く事は出来ても、斬ると云う手筋じゃない」
「ご教誨、有難うございます」
 万太郎はそう云いながら、思わず笑いに動く口元を隠すためにすぐにお辞儀するのでありました。と、したり顔で云うあんたは人を斬った事でもあるのかい、等と冷笑を浮かべて問い返すまでもなく、後輩に対してこう云う言葉を吐く場合は往々にして、内心畏れ入った時だと云う事を少ない人生経験ながらも既に万太郎は知っているのでありました。
 まあつまり、高校一年生の時に試合形式の稽古で万太郎に一本を取られた上級生が、よく稽古後に口にした言葉と同じタイプのものでありましょう。曰く、当たりはしても太刀筋が弱いから今のは試合では一本とは見做されない、とか、偶々当たったと云うだけで手の内が錬れていないから未だ技にはなっていない、とか。
 万太郎は高校一年生の時には、どの上級生よりも長い剣道の修行歴と試合経験を持っているのでありました。しかも捨身流と云う、名の知れた道場で修業していたのであります。
 片腹痛し、とはこう云う場合に用いる言葉でありましょう。しかしそう云う思いを表出して徒に先輩達の敵意を買っても仕方がないので、万太郎は何時も穏やか且つ真摯気な顔を崩さないのでありましたが、これは万太郎の処々を心得た歳に似合わない老獪さと云うよりも、彼の人後に落ちない人づきあい上の無精からくる世過ぎ術でありましょう。
 で、万太郎は威治教士が自分を侮り難し、と認めてくれたものと考える事にするのでありました。そう思っていてくれれば返って好都合で、前に良平にしたような意地の悪いちょっかいの矛先は滅多には自分には向かないでありましょうから。
「おい、折野君、控えの間の総士先生達の処に行くぞ」
 花司馬筆頭教士が万太郎に後ろから声をかけるのでありました。
「押忍」
 万太郎はふり向いて急いで立ち上がるのでありました。
「威治教士、後の道場の仕切りは頼んだぞ」
 花司馬筆頭教士は未だ座った儘の威治教士に指示するのでありました。後の仕切りとは門下生の帰りを見送って後の道場の後始末であります。
「判りました」
 威治教士は抑揚のない声で返事をして特に威儀を正さない礼をするのでありました。興堂派道場では指示のあった時に、承りました、と返す風習はないようであります。
「折野君は未だ入門二か月と云う事だが?」
 廊下を範士控えの間に向かって歩きながら、花司馬筆頭教士が万太郎に話しかけるのでありました。一緒に稽古をして後、大いに親しみが増したと云った口調であります。
「はい。住みこみの本格的な内弟子になってから二か月になります」
(続)
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