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もうじやのたわむれ 146 [もうじやのたわむれ 5 創作]

 さて取り敢えず部屋の方を見てみるかと、拙生がエレベーターのある方に歩き出そうとすると、すぐ横のソファーに座っていた男に声をかけられるのでありました。
「あのう、補佐官と先程お話しになっていた新宿の噴水のある喫茶店ですが、それはカトレアと云う名前のマンモス喫茶ではありませんでしたかな?」
 男はソファーに座った儘拙生を見上げているのでありました。
「いやあ、カトレアには噴水はなかったと思いますが」
 拙生はそう返すのでありました。
「ああそうでしたかな。なんせもう随分前の事で、私の記憶もあやふやになっていますから。しかし、カトレアではなかったにしろ、その新宿の地下の噴水のある喫茶店は、私も覚えておりますよ。当時は別に用もないのに、色んな喫茶店にまめに通ったものでした」
 男はそう云って懐かしげな眼差しをするのでありました。見た目から判断すると、この男と拙生はどうやら同世代のようであります。
「当時は新宿とかお茶ノ水とか神保町にマンモス喫茶が何軒もありましたねえ」
 拙生はそう云って、ソファーにもう一度腰を下ろすのでありました。男は立ち上がると拙生の座っている傍に来て、さっきまで補佐官筆頭が座っていた拙生の横に腰かけるのでありました。どうやら拙生同様、閻魔大王官の審理を受けている亡者のようであります。
「あなたもこれから、思い悩みの三日間をお過ごしになるのですか?」
 男が訊くのでありました。
「ええそうです。まあ尤も私はもう生まれ変わる処はほぼ決めているので、そんなに思い悩む必要はないから、気楽に呑気に旅行気分で三日間を過ごすつもりですけどね」
「もう、生まれ変わる処を決めていらっしゃるのですか?」
「そうですね、ほぼ」
「立ち入った事をお訊ねしますが、何処を選ばれたのでしょうかね?」
「地獄省の邪馬台郡で、まあ、この閻魔庁のある処ですよ」
「地獄省? ああそうですか」
 男はそう云って拙生から目を逸らすのでありましたが、その顔には多分無意識にでありましょうが、明らかな落胆の表情が浮かぶのでありました。
「貴方は未だお決めになってはいないので?」
「ええそうなんです。思い悩みの真っ最中なのです。もう今日が二日目で、あと一日しか思い悩む時間はないのですが、地獄にするか極楽にするか決められないでいるのです」
 男は悩まし気に首を微かに横にふるのでありました。「未だ娑婆っ気の抜けない今の身にあっては、矢張りどうしても極楽往生に未練がありましてね。こちらの世の実際の地獄と極楽が娑婆で聴いていたものとは全く違うと云う事も判ったし、極楽省のやたらと高慢ちきな官吏から聞いた極楽省の事情より、地獄省の方がお気楽に過ごせそうには思うのですが、しかし極楽への未練がどうしても断ちきれないでいるのです。困りました。・・・」
「ああそうですか。なんとなく少し判るような気もしますが」
「貴方は極楽への未練は全然ないのですか?」
(続)
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