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暴虐の王と美女のはなし [本の事、批評など 雑文]

 司馬遷の『史記』には高潔の士も情義の人も、節義の仁も数多く登場するのでありますが、暴虐の王と云うのも暫し登場するのであります。殷(商)の最後の帝紂はその代表格と云う事になるでありあましょうか。
 殷(商)の前の夏王朝最後の帝桀も暴君とされているのでありますが、夏本紀の最後の方に「帝桀は徳を修めず百官を殺したので、云々」とあるだけで、その暴虐の具体的なところは『史記』からは掴めないのであります。そこへいくと殷(商)の帝紂はその暴虐ぶりが具体的に縷々述べられているのであります。
 『史記』に依ると、紂は酒好き女好きで、特に美女妲己に溺れ、楽官に命じて淫靡な曲を創らせ、税を高くして富を集め、権力と財に飽かして貴物を収集し、自分専用の動物園まで造り、「酒池肉林」の宴を催して遊楽の限りを尽くすような毎日を送ったとされています。またそれを怨嗟する者や諌める者があると、炮烙の刑と云う残忍な刑罰を考案してそれを執行し、罪人がもがき苦しんで死んでいく様を眺めて楽しんだとされています。
 しかし一方で紂の人となりを、天性の能弁家であり行動も素早く、見聞に聡くてその上力持ちで、素手で猛獣を倒す程の膂力があり、悪知恵が働いて臣下の諫言も反対にやりこめることが出来たと紹介されているのであります。つまり自分の能力を誇り、人を侮り、増長するだけ増長し、であるから自分以外に貴人なきが如く、当然のようにやりたい放題をやらかしたと云うことでありましょう。
 この紂のやりたい放題は、妲己の望むことは何でも聴いてやったと云う記述もあることや、周本紀に殷(商)を討つ周の武王の檄や誓言にそれを匂わす記述のあることから、妲己の歓心を買うためにとか妲己に唆されてとか云う風にも解釈され、後世その線に沿った「物語」も多く創られるのでありました。それに妲己は後に殷(商)を滅ぼした周の公子旦が秘かに仕こんだ、紂を誑しこむための秘密兵器であると云う穿った(穿ち過ぎた)説もあるのでありますが、それは『史記』に記述はないのであります。
 この、次の周王朝も十二世幽王が褒姒と云う美女に狂い、生まれてから一度も笑った事のない褒姒を笑わせたい一心で、浅慮に碌でもないことを仕出かして国を傾けたのでありました。妲己と褒姒を並べると、傾国の陰に女あり、ああ、とかく女人は恐ろしき哉等とつまらぬことを考えて、拙生の取るに足らない卑近なところも序でにちらと加味したりなんかして、一人秘かに身震い等するのでありますが、ま、拙生のことはこの際どうでも宜しいのであります。
 幽王の場合は紂とはちと色あいが違って、暴虐性よりも寧ろ愚かさ加減が強調されるのでありまして、これはその創り過ぎた感じからも「物語」として読む方がよいのかも知れません。それから、紂における妲己、幽王における褒姒の話はあまりに展開が酷似していて、これはより古い「物語」の発生時の祖形を窺わせて、この一文とは趣旨の違ったところでなかなか興味深いものがあります。
 さて、紂のことであります。一方に、『史記』の記述と異なって、紂は実は極めて政治に意欲的で厳格で、知力、胆力、膂力何れを取っても申し分ない、素晴らしい君主であったのだと云う説もあります。このような優れた統治者が、一女人に溺れて国を傾ける等と云うような事がはたして「物語」ではなく「歴史」として蓋然性があるのでありましょうか。紂の復権は『古代中国』(貝塚茂樹氏・伊藤道治氏著、講談社学術文庫)にも、この線に沿った記述が見受けられますし、他にも多くの本で見受けられるのであります。
 殷(商)王朝の崩壊は、五百年と云う長い時間の推移と、広がった国土、接受した文化に対して祖先祭祀と呪術至上主義の宗教国家である殷(商)の統治制度が矛盾を呈し出した事、外征による国内疲弊、王権の簒奪を目論む周の脅威等の様々な要因が考えられるのであり、紂個人の資質だけにその責を負わせるのはあまりに無理があるように思われるのであります。まあ、紂の宗教的厳格さ、非妥協的政治態度の故に、臣下や民の心服を得られなかったと云うことは「物語」的な領域で推察出来るかもしれませんが。
 「酒池肉林」にしても、悪意一辺倒の目から解放されて眺めてみれば、それは紂の奢侈的退廃的趣味から催された宴ではなく、厳かな古代的な宗教儀式であったかも知れないではありませんか。炮烙の刑にしてもスキーのジャンプ競技の発祥のように、殆ど不可能ながら若し猛火の上に渡された油の塗られた銅柱を万が一渡り切れば、罪人の罪を帳消しにしても良いとする或る種の寛恕の発想から執行されたのかも知れないのであります。
 紂を、妲己と云う美女に蕩かされた暴虐の王として印象づけたのは、後の王朝の、易姓革命の辻褄を確保しようとする御用歴史家達と、周朝の有り様を至上とし、周公旦を聖人として崇める儒家の目論見であったろう事は容易に判るのであります。勿論、司馬遷にもその責はあるのであります。でありますから、そう云った「史料」によって紂の暴虐性を云い募ってみても、それは無意味な仕業だと思われるのであります。
 さて、では紂の実像は如何と問われれば、それはもう「歴史」的に検証するのは不可能に近いのであります。であるなら、これは一方の「物語」的な領域で、新たな紂の像をいかにも妥当と思わせる綿密さと冷静さで、考古学的成果や歴史文献学的成果をも踏まえた上で構築して見せるしかないでありましょう。こうなると浅学で了見が狭い上に、思考に粗が多く、嗜好に偏りの多い拙生の出る幕は、これはどうやら全くなさそうであります。何方か、ここんとこ、宜しくお願いするわけにはいきませんでしょうか。・・・
(了)
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