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大きな栗の木の下で 94 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 御船さんはそう云いながら笑って見せるのでありました。「俺の手は時々、俺の思っていることと全く違う動作を不意にやらかすことがあるんだ。実に困った手なんだ」
 御船さんは膝を打った左の掌を目の前に差し上げて、右手の人差し指で弾いて見せるのでありました。沙代子さんがそれを見てクスッと笑うのでありました。
「それはそれとして御船君、あたしに構わず別に帰っても良いのよ」
「うん、帰っても良いんだけどさ、それじゃあんまり愛想がないからさ、お前のバスの時間が来るまで一緒に待っていてやるよ。どうせ俺も暇なんだし」
「本当? なんかそれ、嬉しいな」
 沙代子さんがそう云って目を見開いて、肩を竦めて両手の拳を上げて笑いが零れる口元を隠すのでありました。その沙代子さんの仕草は、どうしたものか御船さんの方が照れ臭くなってたじろぐ程とても可憐に見えるのでありました。

 それまでに御船さんは沙代子さんを特に意識したこと等ないのでありました。同じクラスの女子の一人と云うだけで、席が近いわけでもなかったから親しく言葉を交わしたたこともないのでありました。クラスの中では沙代子さんは特に目立つ存在ではなく、かといって全く存在感の希薄な風でもなかったのでありました。
 だから弁当箱を取りに行った教室で沙代子さんの姿を認めても、最初は殊更胸がときめいたわけでもなかったのでありましたが、こうして二人きりで言葉を交わしてみると、沙代子さんの大きな目であるとか、長い睫であるとかとか、表情豊かな中高の顔とか、笑うと両頬に現れる笑窪とか、ポニーテールにした髪型とか、綺麗な歯並びとか、制服の襟から延びる細い首とかが、矢鱈に好ましく見えて仕舞うのでありました。特に鼻につく程ではないけれど少し媚びるようなその話し方も、声音も、なよやかな物腰も、御船さんには全く以って好ましく思えて仕舞うのでありました。
 言葉を交わしながら御船さんは、ひょっとするとこの目の前に居る沙代子さんと云うものは、一般的な範疇で捉えるところの、美人で可愛らしい女、と云う部類に属するのかも知れない等と秘かに心中深い処で考えるのでありました。またそう考えてみると、なんとなく気持ちが浮き立ってもくるのでありました。
 尤も御船さんにはそれまで特に親しい女友達がいたわけではなく、誰かに妙に気持ちが魅かれてしまうと云う経験もなかったものだから、こうして偶々沙代子さんと云う女子と二人きりで過ごす時間を得たことに、今まで感じたことのない感奮を覚えたと云う事情はあるでありましょう。実際沙代子さんが美人であるかどうかの評価は、御船さんの経験的な力量を鑑みれば、まことに以て僭越な判定と云われても仕方がないものでありましょう。しかし御船さんが無表情の顔の下で、そう云う驚きに似た印象を強く持ったのは、全く以って疑いのないことなのでありました。
「御船君って、誕生日、何時?」
 沙代子さんが聞くのでありました。それは取り立てた話題が二人にないための、特に意味もない愛想笑いと同じ類の質問なのであろうと御船さんは思うのでありました。
(続)
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