大きな栗の木の下で 30 [大きな栗の木の下で 1 創作]
矢岳君の創る詩って、案外硬派なものが多いのよ。それは恋愛とか失恋とかの詩も結構あるけど、あたしは実はそんなのより、もっと硬い主張のあるものの方が好きだったの。あたしには詩や曲の善し悪しなんてまるで判らないんだけど、でもそっちの方が、言葉がピリピリと律動しているって感じがするの。
なんだったかな、ええと、もう今となっては、この世から俺達の心を躍らせるような大きなテーマや共感や、それに悲劇すら、すっかり消滅して仕舞って、細々とした破片が錆びて散らばっているだけだから、結局抑揚のない歌しか俺達は歌えなくなっていくんだ、だったかな、細部は違っているかも知れないけど、なんかそんな詩があってさ、当時あたしそれにグッときたの。確かにあたしたちの世代には、前の世代が持っていたような大きな目標みたいなものが、どうしたわけかなくなっていたような気がしていたからさ。まあ、だから要するに、そんな詩の方が、矢岳君の創る詩の中でも特に好きだったのよ。
でもそう云う歌は、コンサートなんかでもあんまりウケないの。十曲の内九曲は恋愛の歌よ。確かに矢岳君の創る恋愛の歌も物語的で抒情的なんだけど、実は矢岳君はそんな歌を歌うために音楽活動をしているんじゃないんだって、あたしには思えたの。まあ、矢岳君に聞いたわけでもないし、矢岳君もそんなことあたしに説明なんかしないし、あくまでもあたしがそう感じたと云うだけなんだけどね。
だから、あたしだけが、矢岳君を理解しているんだって気が、あたしはしたの。それだけでも、あたしが矢岳君の傍に居る意味があるんじゃないかってさ、そう云う風に考えたのよ。あたしほら、その頃矢岳君に逆上せあがっていたからさ、だからね、そう云う自分に都合の良いこと、結構真面目に毎日、考え出したり確認したりしていたわけよ、要するにつまり。・・・>
御船さんは遠くに見える海をぼんやり眺めながら、話す沙代子さんの声を聞いていたのでありました。しかしその話の内容には殆ど気持ちが向かってはいないのでありました。沙代子さんの声を聞きながら御船さんは、大学時代に電話を所有していながら、どうして沙代子さんは自分には電話番号を教えてはくれなかったのだろうかと云うことを、少々の恨みがましさと無力感の領域で、ウジウジと詮索していたのでありました。
「ところで、さっきの電話の話だけどさ」
御船さんは唐突にそう沙代子さんに訊ねるのでありました。「沙代子の部屋の電話番号、その当時、沙代子の家の人以外に誰が知っていたんだ?」
そう聞かれて沙代子さんは御船さんの顔を見るのでありました。
「え、なに、あたしの電話番号を知っていた人?」
「うん、いや、合気道部の他の連中も知らなかったのかな、それは?」
「そうね、同期の優梨子は知っていたかな。それと後、地理学科の親しい何人かの女子には教えていたけど、まあ、それくらいかな」
「ふうん、そうか」
優梨子と云うのは合気道部の渉外係の赤崎さんのことでありました。
(続)
なんだったかな、ええと、もう今となっては、この世から俺達の心を躍らせるような大きなテーマや共感や、それに悲劇すら、すっかり消滅して仕舞って、細々とした破片が錆びて散らばっているだけだから、結局抑揚のない歌しか俺達は歌えなくなっていくんだ、だったかな、細部は違っているかも知れないけど、なんかそんな詩があってさ、当時あたしそれにグッときたの。確かにあたしたちの世代には、前の世代が持っていたような大きな目標みたいなものが、どうしたわけかなくなっていたような気がしていたからさ。まあ、だから要するに、そんな詩の方が、矢岳君の創る詩の中でも特に好きだったのよ。
でもそう云う歌は、コンサートなんかでもあんまりウケないの。十曲の内九曲は恋愛の歌よ。確かに矢岳君の創る恋愛の歌も物語的で抒情的なんだけど、実は矢岳君はそんな歌を歌うために音楽活動をしているんじゃないんだって、あたしには思えたの。まあ、矢岳君に聞いたわけでもないし、矢岳君もそんなことあたしに説明なんかしないし、あくまでもあたしがそう感じたと云うだけなんだけどね。
だから、あたしだけが、矢岳君を理解しているんだって気が、あたしはしたの。それだけでも、あたしが矢岳君の傍に居る意味があるんじゃないかってさ、そう云う風に考えたのよ。あたしほら、その頃矢岳君に逆上せあがっていたからさ、だからね、そう云う自分に都合の良いこと、結構真面目に毎日、考え出したり確認したりしていたわけよ、要するにつまり。・・・>
御船さんは遠くに見える海をぼんやり眺めながら、話す沙代子さんの声を聞いていたのでありました。しかしその話の内容には殆ど気持ちが向かってはいないのでありました。沙代子さんの声を聞きながら御船さんは、大学時代に電話を所有していながら、どうして沙代子さんは自分には電話番号を教えてはくれなかったのだろうかと云うことを、少々の恨みがましさと無力感の領域で、ウジウジと詮索していたのでありました。
「ところで、さっきの電話の話だけどさ」
御船さんは唐突にそう沙代子さんに訊ねるのでありました。「沙代子の部屋の電話番号、その当時、沙代子の家の人以外に誰が知っていたんだ?」
そう聞かれて沙代子さんは御船さんの顔を見るのでありました。
「え、なに、あたしの電話番号を知っていた人?」
「うん、いや、合気道部の他の連中も知らなかったのかな、それは?」
「そうね、同期の優梨子は知っていたかな。それと後、地理学科の親しい何人かの女子には教えていたけど、まあ、それくらいかな」
「ふうん、そうか」
優梨子と云うのは合気道部の渉外係の赤崎さんのことでありました。
(続)
2011-06-23 09:01
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