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大きな栗の木の下で 26 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 沙代子さんは少しの間黙るのでありました。それはこんな話を始めた唐突さを悔いている故の沈黙だったかも知れません。沙代子さんの海の方へ向いた目が細められているのは、御船さんにこの先の話をしてもよいものやら逡巡しているためでありましょうか。御船さんは沙代子さんの横顔を、秘かに息をつめて見ているのでありました。
 沙代子さんがまた口を開くのでありました。
「で、あたしは、その矢岳君と、つきあいだしたの。・・・」

 <あたしはそれまで、矢岳君と云う人のこと殆どなにも知らなかったの。地理学科は人数が少なくて、殆どの講義がクラス単位だったから、そう云う人がクラスの中に居るってことは知っていたけれど、それに高校時代から音楽やっていて、学内じゃ結構有名なアマチュアのフォークシンガーだってことも、人に聞いて知ってはいたけれど、でもそれまで殆ど口もきいたこともなかったし、接点も全然なかったのよ、三年生になるまでは。あたしの方は、まあ、合気道部の方も忙しかったからさ。
 或る時講義が終わって、矢岳君が横の席に来て、あたしに突然話しかけてきたの、若し良かったらこれからお茶を飲みに行かないかって。丁度月曜日で、その後合気道部の稽古もなかったし、特に誰かと約束をしているわけでもなかったけど、なんか急にそんなこと云われて、そんなに親しくもない男の人と一緒にお茶を飲みに行くのも、あたしなんとなく抵抗があったから一応断ったの。
「でも、今日は合気道部の稽古はないんだろう?」
 そうしたら矢岳君がそう聞くの。あたしが合気道部に居て、その合気道部の稽古は月曜日と日曜日はないってこと、どうやら知ってるようなの。予め調べていたのかしらね。
「今日はこれから、行く処があるから」
 あたしがそう云うと矢岳君は凄く真剣な顔で聞き返すの。それはどうしても今日、これから行かなければならない処なのかって。
 あたし別に行く処なんて実はなかったし、断る方便としてそう云っただけだったから、なんとなくその矢岳君の真顔に気押されて、別にどうしてもってことはないんだけど、なんて気の弱いこと云ってしまったのよ。
「だったら、今日はこれから俺につきあってくれよ。なあ、頼むよ」
 矢岳君はそう云ってあたしに掌をあわせて見せるの。
「どうしようかなあ」
 あたし未だそんなこと云うんだけれど、まあそんなに云うんなら、お茶ぐらいつきあってあげてもいいかって、ちょっと気持ちがもう動いてたのよ。
 で、結局二人で学校の近くの喫茶店に行ったの。ほら、あたしが合気道部辞める時、御船君に辞めるなって説得されたでしょう、あの同じ喫茶店。
 そこで二人で一時間半くらいお喋りしたの。矢岳君はあたしのこと色々と聞くの。出身地とか、そこはどんな処かとか、あたしの高校生の頃のこととか、どんな風な高校生活を送っていたのかとか、家族のこととか、合気道はどんなところが面白いかとか、色々。
(続)
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