大きな栗の木の下で 25 [大きな栗の木の下で 1 創作]
「いいや、未だしていないよ」
一つ咳をしてから、御船さんは応えるのでありました。
「若し奥さんとか子供さんが居たら、御船君、気持ちが大変かなって思ってさ」
「いや、俺は独身の気楽な身だから、そんな気患いはないよ」
「ふうん」
沙代子さんは海の方を見るのでありました。風が吹きあがってきて木蔭の中の沙代子さんの前髪を泳がせるのでありました。御船さんはそんな沙代子さんの横顔を遠慮がちに見ているのでありました。見蕩れて仕舞いそうでありました。
「でも、ところで、決まった彼女とか、いるんでしょう?」
沙代子さんが御船さんの方に顔を戻すのでありました。御船さんは慌てて目を逸らそうとしたのでありましたが、一瞬の機を逸して仕舞って沙代子さんと視線がかちあうのでありました。屹度沙代子さんに、自分の瞬間たじろいだ目の色を見られたに違いないと思うのでありました。しかしこれから目線を外すのは如何にも不自然な気がして、御船さんはどぎまぎと数回瞬きをするのでありました。
「そんなもの、いるわけがない」
そう云って笑いに紛れて御船さんは沙代子さんの顔から目を離して、一端下の団地の白いコンクリートの屋上の方に目線を移すのでありました。「ほら、俺は晩稲の方だから」
「あれ、御船君、晩稲だったっけ? ちっとも知らなかった」
「晩稲も晩稲、生一本の晩稲だよ俺は」
御船さんは指を一本立てるのでありました。
「ウチの子ね、さっきも云ったように今年小学校の二年生になったんだけど、それは大学時代に知りあった矢岳って人との間に出来た子供なの」
沙代子さんが云うのでありました。「御船君、矢岳って名前、聞いたことある?」
「ああ、聞いたことがあるよ。合気道部の同期の赤崎からだったかな」
御船さんはそう返すのでありましたが、突然沙代子さん自身の口から矢岳と云う男の名前が出てきて少し戸惑うのでありました。
「あの人、結構有名人だったから」
「フォーク歌手だったかな。兎に角、音楽やってんだろう?」
「そう。一応プロデビューもしたの。結局あんまり売れなかったけどさ。その人は、あたしと同じ地理学科の学生で、或る日あたしにアタックかけてきたのよ。あたしとしたら唐突で、びっくりしたんだけど、あたし、なんとなくそのアタックに気押されたような感じで、その矢岳君とつきあうことになったの」
沙代子さんはそう云ってどこか翳りの或る微笑みを浮かべて、遠い海の方に視線を投げるのでありました。御船さんとしたら話頭が急に沙代子さんと矢岳と云う男のことに向いたことを、なんとなく居心地悪く感じるのでありました。そんな話は、別にこちらから聞いたわけでもないし、敢えて話してくれなくてもいいと云うのに、沙代子さんはいったいまたどうして、そのことを出しぬけに話し出したのでありましょうか。
(続)
一つ咳をしてから、御船さんは応えるのでありました。
「若し奥さんとか子供さんが居たら、御船君、気持ちが大変かなって思ってさ」
「いや、俺は独身の気楽な身だから、そんな気患いはないよ」
「ふうん」
沙代子さんは海の方を見るのでありました。風が吹きあがってきて木蔭の中の沙代子さんの前髪を泳がせるのでありました。御船さんはそんな沙代子さんの横顔を遠慮がちに見ているのでありました。見蕩れて仕舞いそうでありました。
「でも、ところで、決まった彼女とか、いるんでしょう?」
沙代子さんが御船さんの方に顔を戻すのでありました。御船さんは慌てて目を逸らそうとしたのでありましたが、一瞬の機を逸して仕舞って沙代子さんと視線がかちあうのでありました。屹度沙代子さんに、自分の瞬間たじろいだ目の色を見られたに違いないと思うのでありました。しかしこれから目線を外すのは如何にも不自然な気がして、御船さんはどぎまぎと数回瞬きをするのでありました。
「そんなもの、いるわけがない」
そう云って笑いに紛れて御船さんは沙代子さんの顔から目を離して、一端下の団地の白いコンクリートの屋上の方に目線を移すのでありました。「ほら、俺は晩稲の方だから」
「あれ、御船君、晩稲だったっけ? ちっとも知らなかった」
「晩稲も晩稲、生一本の晩稲だよ俺は」
御船さんは指を一本立てるのでありました。
「ウチの子ね、さっきも云ったように今年小学校の二年生になったんだけど、それは大学時代に知りあった矢岳って人との間に出来た子供なの」
沙代子さんが云うのでありました。「御船君、矢岳って名前、聞いたことある?」
「ああ、聞いたことがあるよ。合気道部の同期の赤崎からだったかな」
御船さんはそう返すのでありましたが、突然沙代子さん自身の口から矢岳と云う男の名前が出てきて少し戸惑うのでありました。
「あの人、結構有名人だったから」
「フォーク歌手だったかな。兎に角、音楽やってんだろう?」
「そう。一応プロデビューもしたの。結局あんまり売れなかったけどさ。その人は、あたしと同じ地理学科の学生で、或る日あたしにアタックかけてきたのよ。あたしとしたら唐突で、びっくりしたんだけど、あたし、なんとなくそのアタックに気押されたような感じで、その矢岳君とつきあうことになったの」
沙代子さんはそう云ってどこか翳りの或る微笑みを浮かべて、遠い海の方に視線を投げるのでありました。御船さんとしたら話頭が急に沙代子さんと矢岳と云う男のことに向いたことを、なんとなく居心地悪く感じるのでありました。そんな話は、別にこちらから聞いたわけでもないし、敢えて話してくれなくてもいいと云うのに、沙代子さんはいったいまたどうして、そのことを出しぬけに話し出したのでありましょうか。
(続)
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