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大きな栗の木の下で 16 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 御船さんは風に乱された前髪を指で梳きながら云うのでありました。「沙代子はもっと線の細い、華奢な心根のヤツだと高校生の頃からずっと思っていたけど、意外に俺なんかより図太いところがあるって、そう思ってさ。お見逸れ致しましたって感じだったぜ」
「一応、褒め言葉だと思って聞いておくね、それ」
「いや、正真正銘の褒め言葉だって、頼もしいって云う」
「なんか、がさつでふてぶてしいって云われてる気が、ちょっとするからさ」
「なにを仰いますやら。生一本の褒め言葉だよ」
 御船さんがそう云って指を一本立てて見せるのは、御船さんとしてはつまり、生一本の表象としての一本指なのでありました。
「でも、あの時、ふり返った御船君の驚いた顔、今でも思い出すわ」
「そのあの時と云うのは、会議室に行く前に部室の外に集合した時のことだな?」
「うんそう。話は全くの最初に戻るけど」
 沙代子さんが目を少し細めて御船さんの顔を見るのは、話を急に前に戻したことへの恐縮が多少あったためでありましょうか。「あたしが背中を叩いて合図するまで、あたしがいることに全く気づかなかったの?」
「うん、気づかなかった。記念館の地下に行ったら奥の方で学生が屯していて、その前の部屋に合気道部って表札がかけてあって、ああここだなってそれだけ思ってさ。他にどんなヤツがいるかなんて、そっちには特に気が向かなかったんだよ、あの時は。第一、沙代子がそこにいるなんて考えすらしなかったから」
「御船君あの時、あたしの顔を見てこんな顔したのよ」
 沙代子さんはそう云って、目を剥いて眉根を寄せて、口をへの字にして見せるのでありました。「あたしがそこにいたのが、如何にも迷惑だって感じの険しそうな顔」
 沙代子さんのその大袈裟に作った表情も、とても可愛いらしい表情であると御船さんは秘かに思ってその顔を見ているのでありました。
「いや、迷惑とか云うんじゃなかったけどさ。ただ、本当に魂消たんだよ。そう云う時って、なんか思わず険しそうな顔になるんじゃないのかな、そんな了見は毛頭なくても」
 御船さんはその時の息の詰まるような気分が、またもや頭の中に蘇るのでありました。それは心臓のすぐ横で衝撃とか驚嘆とか歓喜とか動揺とか怯懦とか高揚とかが、破れかぶれに綯交ぜに絡みあったようなものであり、そう云ったちょっと自分でも始末に困るような一瞬の取り乱しを、最も見せたくない人に思わず見せて仕舞ったかも知れないと云うたじろぎでありました。だから竟、一見すると険しい表情のようになったのであります。実は綯交ぜの中でも、歓喜が一番大きな地所を占めていると云うのに。
 御船さんは会議室で幹部の挨拶を聞いている時も、自己紹介している時も、その後の稽古見学で正坐の苦痛に足が唸り声を上げている間も、稽古後に沙代子さんと食事していた時すらも、沙代子さんが合気道部に入ってくれたと云うその事実に完全にいかれて仕舞っていたのでありました。実は総てがしどろもどろであり、苦痛を苦痛として感じる感覚経路の大部分が混線し、その日の最後まで情けない程うわの空の状態でいたのでありました。
(続)
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