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大きな栗の木の下で 7 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 瞼を少し落として横目をする沙代子さんの表情を見た途端、御船さんの胸が熱くなるのでありました。沙代子さんの長い睫に、御船さんの視線が釘づけになるのでありました。沙代子さんの目がいきなり正面を向いて、彼女に自分のこの今のどぎまぎとした様子を見られでもしたらきまりが悪いなと思って、御船さんは椅子の背もたれにゆっくり上体を退避させて沙代子さんとの間合いをとるのでありました。
 三年生の時、夏合宿が終わって後期の稽古が始まったその日に沙代子さんは退部届を出したのでありました。四年生の幹部三人が色々と慰留したのでありましたが沙代子さんの退部の意志は固く、彼等に沙代子さんを翻意させることは出来ないのでありました。退部の理由を沙代子さんははっきりとは云わないのでありました。そこで高校時代から同級生であった御船さんに沙代子さんの真意を聞き質して、出来れば翻意させろと云う命が下るのでありました。
 御船さんは沙代子さんが退部届を出したと云うことに驚くのでありました。まったく意外でありました。それに大いにショックなのでありました。そう云えば合宿中になんとなく何時もより元気がないような風情は見受けられたのでありましたが、まさか退部まで考えているとは思いもよらなかったのでありました。御船さんは沙代子さんを喫茶店に呼び出すのでありました。
「合気道ばっかりやってることに、疲れたのよ。他にもやりたいことがあるし」
 沙代子さんが俯いた儘云うのでありました。
「なんだよ、他にやりたいことってのは?」
「それ、御船君に云わなければならないことなの?」
 そう云う沙代子さんの眉が寄せられて、御船さんを見る目の光にみるみる険しさが現れるのでありました。御船さんはたじろぐのでありありました。だめだ、自分には沙代子さんを説得出来ないと御船さんは思い知るのでありました。
「いやまあ、なんだ、小島先輩に聞いてこいって云われたからさ」
 御船さんはなんとか体裁を整えようと突っ慳貪にそう云うのでありましたが、しどろもどろになっている自分に気づいているのでありました。「それに、辞めます、はいそうですか、じゃあ、これまで一緒に稽古してきた同じ合気道部員として、余りに情けなさ過ぎやしないか?」
「それはそうかも、知れないけど。・・・」
 沙代子さんはそう呟くと余計深く俯くのでありました。御船さんは沙代子さんの旋毛を見ながら、彼女の合気道部員への誠意というものに訴えかけるのではなくて、自分と云う個人のためにこの儘部に残ってはくれないかと訴えたい衝動を懸命に堪えるのでありました。しかし沙代子さんが合気道部を辞める肝心の理由を自分に云おうとしないと云うことは、つまり自分と云う者が彼女の中で彼女の核心に近い処には居ないと云うことであろうから、そんな或る意味で自惚れたような科白を吐いたとしたら、間違いなく彼女の失笑を買うだけに終わるでありましょう。しかしその科白がここで放たれた時に纏うであろう印象とは別に、その言葉そのものは御船さんの全くの真意であったのでありました。
(続)
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