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大きな栗の木の下で 3 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 将来の不安は、それは大いにあるのでありました。しかし御船さんは楽観主義者を決めこんで、いよいよ働かなければどうにも体裁が整わなくなくなったら、その時から働き始めればそれでよかろうと考えるのでありました。今この時山歩きのトレーニングを怠っているとしても、その頃にはいくらなんでも自分の体も多少は壮健になっているでありましょうから。幸い父親は、小さな事業とは云え幾人かの従業員を抱える建築設計事務所をやっていて、家計の上では相応以上の収入は確保されているのでありましたから、暫く以上の間、病み上がりの自分を養う資力くらい充分にあるであろうと、御船さんは全く身勝手で虫の良い観測の見取り図を秘かに頭の中で線引きしているのでありました。自分の怠け者ぶりも随分と醜く成長したものだと、御船さんは自嘲的な笑みを唇の端に浮べて、眼下に広がる下界の街の景色を見下ろしているのでありました。
 下の道にバスが止まるのでありました。バスから数人の乗客が降りるのでありましたが、それは多分市営団地に住む者達なのでありましょう。杖をついた老翁が一人と老媼が二人、それに初老の女性が二人でありました。彼等は手ぶらの者もあれば、下界で買い物をしたのか両手に大きな紙袋を抱えている者もあるのでありました。皆誰とも口をきくこともなく、市営団地の門内に消えていくのでありました。
 バスはこの後道をもう少し上って終点の展望公園まで行くのでありました。山頂の展望公園には斜面に突き出した展望台と、小学生が遠足に使う広い頂上広場と、そのすぐ手前に殆ど人の訪れない観光ホテルが建っているのでありました。市営団地で人を降ろしたバスは、恐らく乗客をもう誰も乗せてはいないでありましょう。平日の昼下がりに山頂を訪れる人など、まずないのでありましたから。
 バスが姿を消すと再び、全く人の気配の絶えた空間が御船さんを囲むのでありました。未だに夏の儘の日差しに、空気が煮え立っているのでありました。木蔭の中に居ても御船さんの額は汗ばむのでありました。下界を舐めて吹き上って来る海からの風が、相変わらず御船さんの前髪を心地よく何度も乱すのでありました。

 女が突然現れるのでありました。足音も立てずに近寄って来た女は(いや、それは御船さんが惚けたように目を細めて下界の風景を見下ろしていたために、その気配に気づかなかったと云うだけのことなのでありましょうが)、栗の古木の蔭の中に入って来て御船さんの横に腰を下ろすのでありました。御船さんは女を見るのでありました。女も御船さんを見て笑いかけるのでありました。
「御船君、久しぶり」
 女がそう云って口元に手を添えて笑うのは、御船さんが未だ女の正体に思い当たらないような顔をしているのが可笑しいのでありましょう。御船さんは女の顔をほんの暫く見つめるのでありました。
「あれ、沙代子か?」
 御船さんがかすれ声で聞くと、女はまだ口元に手を添えた笑い顔の儘で一つ頷いた後、御船さんの声の調子を奇異に思ったような気配を見せるのでありました。
(続)
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