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「四月廿九日。祭日。陰。」13 [「四月廿九日。・・・」 創作]

 行った時と同じように、体を前屈みにして腹を抑えて足を引き摺りながら便所から戻ると、男は布団の上に座りこむのでありました。暗い中で座っていると、腹の痛みが心臓の鼓動にあわせて脈打つのでありました。男は深呼吸を繰り返してみるのでありました。前にも、そうやって腹圧を上げ下げすることが、腹の中にある痛みの塊を鎮圧するのに効果的だったことを、不意に思い出したからでありました。
 腹が膨らむのをズボンのベルトが制限するので、男は両手を使ってそれを緩めるのでありました。五秒をかけて息を腹一杯に吸いこみ、少し止めて、また五秒かけて吐き切るのでありました。痛みから気を紛らわせるのに少しは役立つかと思って、男は頭の中で秒数をカウントしながら繰り返すのでありました。
 何度目かの吸気の後、吸いこんだ量以上に腹が膨らむような感覚を覚えるのでありました。胃そのものが急速に膨張するようで、今までに感じたことのない感覚でありました。おやと思った次の瞬間、今度は胃が痙攣しながら一気に収縮し、喉の方へせり上がって来るのでありました。
 男は目を剥いて、慌てて口を抑えるのでありました。火鉢の方へ急いで向きなおると、その中へ顔を近づけるのでありました。動作の途中から、もう既に嘔吐物が勢いよく溢れ出るのでありました。数回、少しの間隔を開けて、男の絞り出す声と伴に腹の中にあったものが口から総て吹き出されるのでありました。燃え残っていた炭がもうもうと煙を上げて、灰と一緒に男の顔を襲うのでありました。男は息を吸いこむことが出来なかったから、舞い上がった灰に噎せることはないのでありました。
 腹のひくつきが一段落してから、口の端を拭おうと男は掌をそこへ押しつけるのでありました。掌がぬると唇を滑るのでありました。火鉢の辛うじて残った火明かりに照らされている掌を見ると、米粒と真黒な血が付着しているのでありました。これはいけないと、男は無意識に身震いを一つするのでありました。絶望的な身震いでありました。
 意識が急に遠のくのでありました。男は火鉢の横にうつ伏せに倒れこむのでありました。力が抜けて屈した身が伸びて、布団から上体がはみ出し、ズボンは尻に摺り下がるのでありました。男の頬に畳の湿った冷たい感触が伝わるのでありました。その儘畳の上に、また黒い血を吐くのでありました。頬が温い血に濡れるのを不快に思うのでありました。
 やっとこれで、自分は死ぬのであろうと男は思うのでありました。男は妙に落ち着いているのでありました。安堵のようなものすら覚えるのでありました。とっくの昔に潰えても不思議ではなかった命、ここまで無用に長らえてきたこの命が、これでやっと終焉を迎えるのであります。単なる日付と天候の羅列になり果てて仕舞ったあの日記も、遂にもう書かなくても済むのであります。云い知れぬ解放感に打たれて、男の、血に濡れた口が笑いの形に動くのでありました。
 男の閉じた目の中に男が生まれた小石川金富町にあった邸宅の、古庭の風景が現れるのでありました。四百五十坪はあろうかと云う宅地の中の崖下に広がる庭でありました。老樹が茂りそれが風に吠え、片隅にある古井戸から夜の闇が湧き出し、狐も住むその古庭を、当時幼かった男は偏に恐怖していたのでありました。
(続)
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