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「四月廿九日。祭日。陰。」5 [「四月廿九日。・・・」 創作]

 またもや腹痛の最中に男はまどろむのでありました。固い畳の上にではなく布団に入って寝なければ漸く小康を得ていた風邪が、またぶり返すのではないかと心配しながら男の意識は薄らいでいくのでありました。
 男は夢の中で五十余年前に遡行するのでありました。男は二階の窓から庭を見ているのでありました。そこは二十代の半ばの時に遊学したアメリカはタコマの、下宿していた部屋からの眺めなのでありました。女が庭をこちらに向かって歩いて来るのでありました。その女はワシントンで知りあった女なのでありました。女は可憐な顔で、街の酒場で下着姿で唄を歌ったり扇情的な踊りを見せたり、時には幾許かの金で身を売ることもする女なのでありました。男は女と懇ろな仲になったのでありました。
 しかしタコマに居た時には、未だ自分はその女と知りあってもいなかったはずだと男は思うのでありました。けれどもそこは確かにアメリカに着いて最初に下宿したタコマの部屋であり、こちらに向かって来る女は、これも確かにその二年後にワシントンで知りあうことになる女なのでありました。男は女を愛していたから、そんな時間の倒錯を特に不思議とも思わずに女の出現を無邪気に喜ぶのでありました。
 女のこちらに向かって決然と歩いて来る姿から、男がその部屋に居ることをちゃんと判っているのだと知れるのでありました。女は男に逢いに来たのであります。そうして、無邪気な喜びとは裏腹に、男は窓枠の外に身を隠そうとするのでありました。急いでどこかに隠れなければと思うのでありました。逢いたいと思っていた女が今、自分の傍まで歩いて来ていると云うのに。女を再び抱擁出来ることを喜んでいるくせに、何故か男は女から逃げようとしているのでありました。
 思いと行動が不一致である理由が、男には全く判らないのでありました。しかしその理由を探る気などまるで起こらず、女がこの部屋に到達する前に完璧に隠れて仕舞わなければと云う焦りが、男の頭をすっかり支配しているのでありました。男は部屋の中を見回すのでありました。男は身を隠すのに最も頼りになる場所を素早く見定めようとするのでありました。クローゼットの中、ベッドの下、カーテンの裏、机の蔭等々。しかし男の企画を全うするためには、どれもこれも頼りなく思えるのでありました。
 ドアがノックされるのでありました。女はもう扉の前に達したようでありました。男は仕方なくすぐ傍にあった机の下に素早く身を滑りこませるのでありました。こんな処に居たら部屋に入って来た女にすぐに発見されるに違いないと思いながらも、男は机の下で両の掌を腹に当てて身を出来るだけ小さく縮めるのでありました。手の指が腹を強く圧迫するのでありました。ドアが開かれて女の靴音が部屋の中に侵入してくるのでありました。男は腹に食いこむ指の感覚に神経を集中させて、目を固く閉じるのでありました。・・・
 夢で目を固く閉じた次の瞬間、現で男はもの憂げに瞼を開くのでありました。男は五十余年の時間をまた一気に戻り来て、目を覚ますのでありました。男の目の前に数本の白髪を取りこんで丸まった暗色の綿埃が見えるのでありました。腹に当てた儘の掌にはもうなにも力が入ってはいないのでありました。しかし腹痛が殆ど消えているのでありました。彼はため息をひとつ吐き出して、無表情に掌を腹からゆっくり除けるのでありました。
(続)
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