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「四月廿九日。祭日。陰。」2 [「四月廿九日。・・・」 創作]

 アリゾナでの貧血による転倒は、男には恐怖でありました。意識が霞むことはつまり、自己が自己でなくなろうとすると云うことでありました。それは男のプライドにかけて許せない現象なのでありました。自己が自己でなくなった状態を人目に晒すことは、死よりも耐えがたいことなのでありました。だから男は遠出を控えようと思うのでありました。以前あれ程馴染んだ浅草へも、あの日以来全く出かけないのでありました。尤もずっと病臥していたのでありましたから、遠出どころか近出すらもないのではありましたが。
 男は道なりに続く塀に時々手を添えながら足下への注意を怠らず、杖代わりの蝙蝠傘を頼りによろよろと大黒家への百メートル程の路程を歩くのでありました。無意識に口から時々洩れ出るところの歩調にあわせるような唸り声は、意ならぬ足の動きを励ますためでありました。大黒家に到着すると、男は大きなため息を漏らすのでありました。ここまでは歩行出来たと云う達成感と、この程度のことに達成感を覚える今の自分と云うものに対して云いようのない情けなさを覚えるのでありました。
「おや先生、随分お久しぶりですね。お体の按配でも悪くされていたんですか?」
 店の者が暖簾を分けて引き戸を開けた男を認めて、声をかけるのでありました。男は煩わしそうにその問いかけに口の端を少し歪める笑いを返しただけで、なにも云わずに何時ものテーブルによろけながら進むのでありました。
「大丈夫ですか。足下がひどく頼りないようですが?」
 店の者は男が着席するのを助けるように、その腕を支え持とうとするのでありました。
「うん、ちょっと風邪をひいていたからね。でももう大丈夫。有難う」
 男は差し出された店の者の手を掃う様な手つきをして着席するのでありました。
「何時もみたいに、お銚子にカツ丼で宜しいですか?」
 その問いかけに男は黙った儘頷くのでありました。
 店のサービスで何時も出るお新香を突きながら男は一合の酒をゆっくり飲み、その後矢張り時間をかけてカツ丼をきれいに平らげてから大黒家を出るのでありました。男は以前通りの食事をなし得たことに満足するのでありました。自分の消化器官は今でも全く健全に働いているようなのでありました。これならばあの世からのお迎えが来るのは、未だ当分先のことであろうと思うのでありました。
 なんとなく気分が良くなったものだから、男は以前のように駅傍の煙草屋兼菓子屋で十本入りのパールと云う両切り煙草とチソパンを買うのでありました。そう云う買い物をすると、浅草で昏倒する以前の自分にようやく戻ったような気がするのでありました。男は妙に嬉しくなるのでありましたが、それが油断でありました。
 店を出ようとした時、男は敷居に躓いて転倒するのでありました。店の主婦が慌てて男を助け起こすのでありましたが、立ち上がると男はその助けの手を掃う仕草をするのでありました。転んだ拍子に手で潰してしまった煙草とチソパンの入った紙袋を片手に下げて、よろけながら男は店を後にするのでありました。今の転倒は足腰の弱化の問題であり、浅草の時とは違うのだと男は口の中で云うのでありました。それはこうして外を歩くことに依って次第に強化出来る性質のものだと、荒い息を吐きながら思うのでありました。
(続)
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