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石の下の楽土には 100 [石の下の楽土には 4 創作]

「じゃあ、頑張れよ、新人」
 これは拙生が新入りのアルバイトに投げた言葉でありました。新入りのアルバイトは大きなお世話だとでも云うように、拙生を一瞬見据えて口を尖らすのでありましたが、一応瞼を少し細めるだけの挨拶を返して、すぐに拙生から目を逸らしてテーブルの上に台拭きを落とすのでありました。拙生はその些か邪険な態度に多少むかっ腹が立ったのでありましたが、ま、しかし先の言葉は確かに拙生の余計なお世話の一言ではありましたか。
「じゃあ、長いことお世話になりました。それにお酒、どうも有難うございます」
 拙生は小浜さんに一礼して笑いかけるのでありました。
「元気でね。本当に、また遊びに来てくれよ」
 小浜さんのその言葉に送られて拙生は『雲仙』を後にするのでありました。
 矢張り気になったものだから拙生は引っ越しの前日、思ったより早く片づいた荷造りの後に墓地へ行ってみるのでありました。男の一人暮らしでありましたから、大して荷物はないのでありました。もう夕方近かったのでありましたが、墓地の閉園時間前には行って帰って来ることが出来るであろうと踏むのでありました。
 墓地に行ってみたら、島原さんの奥さんの墓に新しい花束が供えられていて、娘の家族の墓に二輪の花が手向けられていたなら、拙生は心置きなくこの街を離れることが出来るのでありましたが、矢張りそうは上手くいかないのでありました。二基の墓には先日拙生が供えた花が少し萎れて色褪せて、俯いているのでありました。その花を拙生は持参した新しい花と交換するのでありました。まあ、その日新しい花を娘が働いていたであろう花屋で贖った時点で、拙生としては墓地に島原さんが訪れた形跡は多分未だなかろうと、詰まり既に、見当をつけていたわけではありましたが。
 しかし、実際予想した通りであるとなると、矢張りなんとなくがっかりするのでありました。畢竟、そんなに上手く結末がつくことなんか、この世の中にざらにはないと云うことなのでありましょう。拙生は二基の墓に少し長い時間夫々手をあわせて、墓地を去るのでありました。
 拙生はいよいよ、長く住み慣れたこの街を去るのでありました。引っ越し当日、頼んでいた運送会社の二トントラックが、午前中にアパートの玄関に横づけされるのでありました。トラックの運転手と荷物の積みこみをするのでありましたが、布団程度しか嵩張る物もなくて、トラックの荷台には未だ倍以上の荷物が入りそうな按配なのでありました。故郷から出てきて以来、これまでこの程度の生活道具で生きていたのかと、拙生はなんとなく己が五年間の生活の貧しさに、この期に及んで秘かに呆れ返るのでありました。運転手は荷崩れを心配して、積んだ荷物に長い結束ベルトを幾重にもかけ渡すのでありました。
 拙生を助手席に乗せたトラックは電車の線路を渡り、大きな街道に出るのでありました。この広い六車線の幹線道路を少し走ると両脇に欅の街路樹が並んだ、墓地へ向かう坂道が見えるのでありました。坂道はその日、珍しく晴れた蒼く高い冬空に向かって、ゆったりとうねって延びているのでありました。その坂道の歩道に、花束を抱えた老人が上って行く姿はないものかと、拙生は通り過ぎるほんの一瞬、目を凝らすのでありました。
(了)
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姥桜のかぐや姫

汎武さん
「石の下の楽土には」100回で最終?
とても更新が楽しみでしたので最終回と思いますと
なんとなく淋しいですね。
次回の作品楽しみに致してます。
by 姥桜のかぐや姫 (2011-03-08 16:55) 

汎武

当初の予定通り100回で320枚超の長篇でありました。
創作としては、この後重苦しい(・・・)短篇ひとつと、中篇が一篇
と云う感じで続く予定であります。
まあしかし拙生のことでありますから、色々寄り道するかも知れませんが。
引き続きおつきあい頂ければ誠に幸甚に存じます。
by 汎武 (2011-03-08 17:53) 

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