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石の下の楽土には 98 [石の下の楽土には 4 創作]

「へえ、そうかい。それは良かった」
 小浜さんはそう云って、出入口傍にある席に座れと拙生を手で誘うのでありました。拙生が一礼して座ると、小浜さんも向かいあう席へ腰かけるのでありました。
「色々、ご心配をかけましたが」
「いやあ、兎に角おめでとうだな、それは」
 小浜さんは喜んでくれるのでありました。「どんな仕事だい?」
「ええ、小さな出版社で編集見習いのような仕事です」
「正社員なんだろう?」
「ええ、一応は」
「どんなもの出してるんだい、その会社は?」
「なんでも請け負うみたいですよ。どこかの会社の社史とか企画物とか販促品とかを作ったり、自費出版とか。それから大手の出版社からの委託で本の編集とか、雑誌の企画を丸抱えしたりとか」
「ふうん。聞いているだけでなかなか大変そうな仕事だなあ」
「どうなんでしょうかね、自分には未だなにも判らないですが」
「ああ、ちょっと待っててくれよ」
 小浜さんはそう云って立ち上がると、カウンターの中からから日本酒の五合瓶を持って来るのでありました。
「これ、就職祝いだ。なんか店の物で悪いけど、取り敢えず」
「いやあ、こんなことして貰うと、困りますよ」
「まあ、いいじゃないか。なかなか手に入らないぜ、これは。瀬戸の『明眸』って酒だ」
「瀬戸と云うと?」
「愛知県だよ」
「へえ、そうなんですか」
 拙生は瓶を持ってラベルを眺めるのでありました。「折角ですから、じゃあ、まあ、遠慮なく。どうも済みません」
「親御さんも喜んでいいらっしゃるだろう?」
「ええまあ。やっと頭の上の重しが外れたとか云ってました」
「そうだろう、そうだろう」
 小浜さんはそう云って笑って見せるのでありました。
「ああ、ところで、就職が決まったんで、引っ越すことにしたんですよ」
 拙生が云うのでありました。
「おや、そうなのかい?」
「仕事柄、深夜になることもしょっ中なんで、なるべく仕事場の近くに住んだ方が良いって云われたんですよ、会社の人に」
「へえ、引っ越すのか。そう聞くとなんかちょっと寂しい気がするねえ」
 小浜さんはそう云って少し身を引いて、椅子の背凭れに寄りかかるのでありました。
(続)
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