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石の下の楽土には 65 [石の下の楽土には 3 創作]

「熱燗でよろしいですか?」
 小浜さんが訊ねるのでありました。
「ええ、お願いします」
 島原さんのその返事を聞いて、拙生はすぐに一升瓶から酒タンポに日本酒を一合注ぎ入れるのでありました。
「後で鍋焼き饂飩を出しますから」
 小浜さんが云うと島原さんは一瞬怪訝そうな顔をするのでありました。しかしすぐに三日前のここでの会話を思い出したらしく、その時の会話の内容を失念していたのを恥じるように笑いを眦に浮かべるのでありました。
 島原さんは暫くはゆっくり猪口を傾けながら、千葉の葬儀の様子やその亡くなった従弟との幼少の頃からの交誼のあり様など、小浜さんや拙生に聞かれる儘に話すのでありましたが、それは結構淡々とした話しぶりで、痛手から未だ立ち直れないと云った様子ではないのでありました。会話の中に「この歳になれば何時誰と別れても不思議じゃないから」と云う言葉が時折混じるのは、従弟とのこの世での離別を既に前から覚悟していたからかも知れませんし、どうせそう遠くない将来あの世でまた逢うことになるであろうと云う、島原さんの自分自身の生に対する頓着の薄れた心根からでもあるのでありましょうか。
 島原さんの前に鍋焼き饂飩が出されたのが切掛けのように、入口の扉が引き開けられる音がして、暖簾を額で押し分けるようにしながら薬屋の主人が店に入って来るのでありました。薬屋の主人は片手をあげて見せて、カウンターに近寄って来るのでありました。
「今日は熱燗でね」
 薬屋の主人はそう云いながら島原さんの隣りに座るのでありました。座る時にちらと島原さんの白髪の後頭部に横目を向けるのでありましたが、その目は島原さんに対して親愛の色あいが籠っている視線であるとは云い難いものでありました。ま、例えば、暫くその邪魔な顔を見なくて清々していたんだけれど、未だくたばっていなかったのかいとでも云うような。勿論そんなことを口に出したのではないのでありましたが、拙生にはそう云う薬屋の主人の声がはっきり聞こえたような気がするのでありました。拙生の熱燗を作る手つきが、ぞんざいになるのでありました。
「明日ここ、定休日だろう?」
 薬屋の主人はまるで横に座っている島原さんを無視するように、小浜さんに声を張り上げて聞くのでありました。
「ええ、休みにさせていただきます」
「だったらどうだい、オヤジも『イヴ』に行くかい?」
「そんな相談が出来上がっているんですか?」
「うん。酒屋のケンチャンと、それに肉屋とさ」
「へえ。今日は時津さんや肉屋の高来さんはここにはいらっしゃらないんですか?」
「そう。あいつ等は明日のために今日はカアチャン孝行だな」
 薬屋の主人はそう云ってあの甲高い笑い声を上げるのでありました。
(続)
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