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石の下の楽土には 21 [石の下の楽土には 1 創作]

 悲しくないはずであった兄と父親の死が、悲しみの一部に変容するのでありました。これから孤独にこの世を生きることになった彼女には、最愛の母親は勿論のことながら、たとえ「グレてどう仕様もないワル」の兄でも、「そんな人が居なくなったって、別になんともない」はずの父親でも、せめて今この部屋に一緒に居てくれたならどんなに心強いかと涙を流すのでありました。
 彼女は職場では元々寡黙で目立たない方でありましたが、益々その傾向が嵩じてくるのでありました。嵩じた果てに、彼女は思う通りに人と口をきくことも出来なくなって仕舞って、朝の挨拶の言葉も喉に閊えて出てこなくなるのでありました。あの怖い部屋に帰らなければならないと思うと、仕事の手もぎごちなくなってミスを重ねて、結局職場に居辛くなって会社を辞めるのでありました。会社の寮代わりのアパートも出て、駅からかなり離れた処で家賃が格安の部屋が見つかったものだから、そちらに転居するのでありました。その折、彼女を悲しませるだけの家具や小物類を、思い切って一切処分して仕舞うのでありました。
 転居費用を払うと、彼女には手持ちの金が殆どなくなるのでありました。彼女は一月ほど食を切り詰めるだけ切り詰めて生活するのでありましたが、遂にどうにも困窮して、自分にも出来そうな仕事を探すのでありました。好都合にもアパートの近くの大きな店舗で商いをする花屋でアルバイトを募集しているのを見つけて、なんとか今後の世過ぎの道を確保するのでありました。
 その辺りから、彼女の墓への日参が始まるのでありました。彼女は墓石の前にしか安息の場所がないように思うのでありました。この墓の前に立つことがこの世に生きる彼女の唯一の目的で、その他の生活の一切はそれを実現するための手段なのでありました。雨が降ろうが台風が来ようが、休日は勿論のことアルバイトの時間以外、彼女は屹度墓の前に立つのでありました。
 彼女にはそれが「墓参り」と云う行為であると云う思いはないのでありました。云ってみればそれは、彼女の中では「帰宅」と云い換えられるものだったのかも知れません。だから花や線香を供えなければとは、思いつきもしないのでありました。掌をあわせると云う所作も、彼女にはむしろこの墓の前では相応しくないものに思えるのでありました。自分の部屋を掃除するように、彼女は時々墓石を拭いたりはするのでありましたが。
 墓地では殆ど誰とも逢わないのでありました。周囲に茂る草と木々のさざめきの中で、墓石の前に立つ彼女と、土中に潜む蛇や百足や様々な幼虫と、夏に鳴く蝉、秋に集く虫の他には息をしているものは彼女の周囲には居ないのでありました。それは長閑な初夏の日に、縁側で庭を眺めながら寛ぐような感覚と同じだろうと彼女は思うのでありました。
 しかし或る時彼女の視界の中に、自分の墓の二つ隣りの墓に参る老人の姿が出現するのでありました。彼女は安息を乱されたような気がするのでありました。自分と家族とが団欒している家に、いきなり他人が侵入して来たような不快と緊張を感じるのでありました。老人もこの墓地で人と逢うのが珍しかったのか、怪訝な表情をして、しかし彼女に向かって少し頭を傾けるのでありました。
(続)
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