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「刎頸の交わり」のはなしⅠ [本の事、批評など 雑文]

 この「刎頸の交わり」と云うのは、司馬遷の『史記』廉頗・藺相如列伝の中に出てくる言葉で、その友のために頸を刎ねられても悔いないと云うくらいの親交のことであります。「完璧」でお馴染みの中国戦国時代の趙の上卿であった藺相如と、廉頗将軍とのつきあいを称してそう云うのであります。
 藺相如は大国秦の昭王と趙の恵文王の澠池での会見で、その胆力をもって秦王の辱めから趙王を守った忠臣であり、廉頗将軍はそれまでに数々の武勲を立てた英雄であります。澠池の会見での功を愛でた趙王は藺相如を上大夫から上卿に親任するのでありましたが、そうなると面白くないのは地位が下になった廉頗将軍であります。自分は攻城野戦に趙の大将として大功をたてたと云うのに、藺相如は口先ばかりの働きで自分の上位に立った。それに元々卑しい出自のヤツである。顔をあわせたら屹度恥辱を与えてくれようと誰にとなく言いふらすのでありました。
 藺相如はその噂を聞いて廉頗には近づかないに如かずと、朝見の時も病気と称して彼の人との同席を憚るのでありましたし、外出時に遠くから廉頗の姿を認めただけで姿を隠すのでありました。そうなると藺相如の家来たちは主人のそんな態度が面白くありません。自分達は殿様の高義を慕って仕えていると云うのに、廉頗が悪口したからと云って、それを恐れて逃げ隠れするのはなんとも情けない話だと主人を諌めるのでありました。
 藺相如はそんな家来に、諸君は廉頗将軍と大国秦の昭王と、どちらが上と思うのかと問うのでありました。云うまでもなく秦王の方が上であると家来たちは応えます。藺相如は、自分はその秦王の威勢をも恐れなかったと云うのに、なんで廉頗ごときを恐れようかと返すのでありました。強大なる秦が趙に攻めて来ないのは、趙に自分と廉頗の二人が共に揃って居るがためである。もし二人が争ってどちらかが欠けるようなことになれば、秦につけこむ隙を与えることになるだけで、自分が廉頗に対してこのような態度をとっているのは、国家の急を先とし、私的な憤怒を後とするからであると説くのでありました。
 それを伝え聞いた廉頗は自らを深く恥じ、罪人が罰を受ける身なりになって藺相如の屋敷の門へ出向いて謝罪するのでありました。藺相如はそんな廉頗をあくまで立て、気遣い、心おきなく歓待して二人は「刎頸の交わり」を結ぶのでありました。なかなかに麗しい交友の始まりでありあます。
 この「刎頸の交わり」と同じ意味の言葉に「管鮑の交わり」と云うのがあります。これは戦国時代よりももっと遡った春秋時代の覇者で、斉の桓公に仕えた管仲と鮑叔の交誼を云うものであります。同じく『史記』の管・晏列伝の中に出てくるのであります。
 管仲は貧乏で、何時も鮑叔を騙して自分の利を先にしていたのでありますが、鮑叔は常に善意で管仲に接し、一言の不満を云うこともなかったのでありました。それは管仲が賢者であることを知っているが故でありました。その内に鮑叔は斉の公子小白(後の桓公)に仕え、管仲は公子糾に仕えるのでありました。この二人の公子は斉の主の座を争うのでありますが、管仲は公子糾のために公子小白の命を狙ったこともありました。後に公子小白が位についた時、管仲は囚われの身となるのでありました。しかし鮑叔はこの敵方であった管仲を桓公に推挙したのでありました。
(続)
タグ: 中国 史記
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