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怨嗟と冷笑-永井荷風『狐』Ⅲ [本の事、批評など 雑文]

 荷風の父親久一郎氏は明治政府の官吏であり、後に日本郵船の横浜支店長でありました。青年荷風のアメリカ渡航はこの線に乗ったものでありました。久一郎氏は荷風のフランス行きを認めず、実学の国アメリカ行きは認めたのでありました。久一郎氏は一方で漢詩を能くする人でもありましたが、明治政府の推し進める西洋化政策、実学重視政策の忠実で厳格な加担者でありました。云わば「新しい世界-明治」に属する人であります。作品中の田崎はこの父親の路線の無批判な追従者であります。磯田光一氏によれば[父-田崎]という系が「新しい世界-明治」と云う軸を持ち、前に挙げた情緒としての古井戸、老樹、闇、狐、それに家に居る女達、作品中に時々差し挟まれる陰惨で世知辛い時世の出来事等が「古い世界-江戸」を象徴するもう一つの軸であります。この二つの軸は歴史的に有無を云わさず「新しい世界-明治」の軸に統合されようとするのは判っています。ご飯焚のお悦が狐を殺すのは不吉であると云いつのるのに対して、田崎が「主命の尊さご飯焚風情の嘴を入れる処でないと一言の下に排斥」する場面はこの象徴的なシーンであります。
 繰り返しますが、明治と云う時代はその前の時代を徹底的に壊し、新しい国家像を創るために様々な所で格闘が展開され、多少の無理も厭わず、急激に新しい秩序の側に統合を果たさねばならない時代であったと云えるでありましょう。日本の近代化-西洋化は、世界情勢の上でも日本と云う国家が生存していくための急務であったと理解出来ます。この辺りの事情は既に在る論を態々ここで拙生がなぞる必要はないでありましょう。
 しかしもう一つ問題に思えるのは「新しい世界-明治」の側に属する人の中に、毀し踏みつけ屈伏させる対象たる「江戸」と云う名の廃屋に漂う情緒を、実は自分の内部にも色濃く残しながら廃屋のみを破壊したことにあるのではないでしょうか。その意味でその破壊行為は不徹底でありました。この不徹底を、荷風は『狐』の中に霧が泥むように、ある意味冷笑的に漂わせてようとしているように思われます。先の田崎がご飯焚のお悦を排斥する言葉の中に「主命の尊さ」と云うものがあります。「新しい世界」に属しその立場で「古い世界」を象徴する狐を駆除しなければならないはずの田崎が、旧世界の秩序に属する言葉を盾にお悦の訴えを一言の下に排斥するのであります。父親が近代武器ではなく悠長にも片肌脱ぎで弓の稽古をするのもこの不徹底さの暗喩であります。結局父親の中にも「古い世界」を脱しきれない情緒がまだ色濃く残っているわけであります。荷風にはこの「新しい世界」を担うはずの「強者」「創る者」「君臨する者」「実用」側の不徹底さが我慢ならなかったのかも知れません。江戸趣味も、後の荷風がその生に於いて個人主義を全うしたのも、実は斬新で強靭たる新時代と呼ばれる世界の実相を見破り、その不徹底な実態を怨嗟した故ではなかったかと思うのであります。
 己の不徹底を恥じない今の時代と距離を置くために荷風は、排斥されるべきそれ以前の時代に自分の住み家を定めるのであります。そこから今の時代をクールに傍観しながら、今の時代を強く無視する作品を書くことで、荷風はその不徹底な実態を笑おうとしたのではないでしょうか。荷風はこの意味に於いて間違いなく“現代作家”であったと云えます。
 そう云うわけで作品『狐』は作家永井荷風のその後を、ある意味で決定づける短篇であったと見做すことが出来るでありましょう。
(了)
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