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毛布と拙生のややこしい関係Ⅱ [本の事、批評など 雑文]

 ロシア文学の大概に漏れずオレーシャの『羨望』も、全体的に重苦しい気分に満ちております。社会主義体制に対する違和感を表現しようとした作品でありますから、当然そんなに明るい作品になるわけはないのでありますが。しかしどうしてロシア文学には沈鬱で己が運命を嘆き悲しむと云った類のものが多いのでありましょうか。その気候のせいでありましょうかな。まあしかし、拙生はロシア文学についそんなに詳しいわけではなし、またさほど多くの作品を読んでもおりません故、中には底抜けに明るいものもあるかもしれません。ロシア小噺集とかいったものを読むと結構洒脱で軽いタッチの噺も多く、自虐ネタもあって、ロシア人が皆深刻面をしているとは思われませんし。
 しかし『羨望』はやはり結構重苦しいのであります。だからこそその重苦しさの中で「・・・わたしは焼け切れた時代の心臓をふってみたいのです。心臓の電球の切れた線がふれあうように。・・・そして、一瞬の、えもいわれぬ美しい輝きを呼び起こしたいのです」とかの言葉に、読者としては縋りつくように感動と美しさを見出すのかも知れません。また、重苦しい『羨望』ではありますが、突飛であるけれどぴんとくる比喩、その比喩を駆使して日常的なものを異化し、まったく新鮮なイメージにしてしまうオレーシャの手法にわくわくさせられるのであります。この辺は先に挙げた岩本和久氏の著書に詳しく論じられております。ここで最初に引いた「品物はわたしを愛してくれない。・・・」に戻ると、岩本和久氏はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』、「ロボット」と云う単語を生み出したことでも知られるチャペックの戯曲『R・U・R』の主題たる「事物の反乱」と絡めてオレーシャの手法を語られるのでありますが、この辺りは拙生の出る幕などありません。
 拙生がこの表現に接して最初に持った印象は、結構ポップじゃないか、と云うものでありました。「おお、これは云えてる」と感心したのであります。時間の前後も顧みず敢えて云うと、少し前に流行った『マーフィーの法則』と云う本のノリであります。これはその先駆的な記述ではないでしょうか。日頃なんとなく感じていた別に大した不条理とも云えない不条理を、この作家も自分と同じように感じていたのだと云う共感であります。オレーシャと云う作家の背景もロシア文学史における位置づけも知らず、ただその本の題名たる『羨望』と云う文字になんとなく惹かれて手にはしたものの、読みはじめてどこか調子が出ずにいたのですが、すぐにこの記述があって、これでちょっと読み進む意欲が出てきたのであります。まあ、この記述のおかげで途中下車をせずに最後まで作品を読まされたと云った感じでありますか。
 しかし読み進めば、先に云ったように煌めくような比喩や、イメージの多彩さと云った作品の素晴らしさに次第にのめりこみ、一気に読み終わったのであります。二十代前半の閉塞感とか憂鬱とか、その時代の流行りものに対する意味不明の反発やらを抱えて、鬱勃とした時間を過ごしていた身にあっては、社会主義と云う新しい時代に齟齬をきたしその孤立感を表現するこの作品に、なんとなく救われたような気がしたのであります。
 夜中に、二十歳を少し越えた拙生は布団とのややこしい関係を持て余しつつ、隙間から侵入する冷気と闘いながらオレーシャの『羨望』の項を捲っているのでありました。
(了)
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